金櫻神社の宮司、総代にお話をお聞きしました

2021年12月23日

県外でも広く知られる金櫻神社。全国から参拝者が訪れます。

今回は、廣瀬議員が昔からつながりのある金櫻神社の総代や宮司に、神社の歴史やコロナ禍の影響などお聞きしてきました。

お話をお聞きした方:金櫻神社 志村宮司、相原総代

インタビュアー:廣瀬集一(甲府市議会議員)、小田和(ヒノキブンコ)

伺った時期:2021年5月〜7月

金櫻神社とは?

金櫻神社(かなざくらじんじゃ)は、山梨の昇仙峡の北側へ車で10分ほど、甲府市御岳町にある神社。

およそ2,000年前、第十代崇神天皇の御代に疫病が蔓延した際に、悪疫退散と万民息災の祈願のため金峰山山頂に御祭神である少彦名命を祀ったのが起源です。

金櫻神社の名前の由来でもある御神木の「金櫻」(樹種は鬱金桜) は、春になると淡い黄金味を帯びた花で満開になります。金櫻を拝んで水晶のお守りをうけると一生涯金運に恵まれ、厄難解除のご神徳をうけられるものと、全国各地から参拝者で賑わいます。

宮司・総代にお話をお聞きしました

—コロナ禍での神社の様子を教えて下さい。

宮司 : 今年7月1日に60年に一度の御縁年祭を行いました。当社の本宮が金峰山の五丈岩で、本宮からこちらへ遷(うつ)したときの感謝の奉祝です。コロナ禍で行うか懸念もありましたが、今だからこそ行う意義があります。約2,000年前に疫病が蔓延したときに、悪疫退散・万民息災の祈願のために金峰山山頂に御祭神を祀ったのが当社の起源だからです。

 

—金櫻神社の所蔵品についてお聞かせください。

総代 : 当社のご神宝の中でも水晶玉はよく知られてます。所蔵するものの中で最も古い水晶玉は室町時代のものです。

金櫻神社で所蔵する室町時代の水晶玉

 

総代 : 武田信玄の時代にも中央に水晶があしらわれた軍配があります(天目山栖雲寺所蔵の「鉄製軍配」)。水晶を使った技術というのは古く、古墳時代から使われてたとも言われています。実際に水晶の勾玉も発見されていますね。明治時代にウィーン万博で出展された水晶玉もここで作られたものです。

 

—中世に作られた水晶玉がご神体のある金峰山から出土し、山梨県立博物館に収蔵されています*。標高2,500mを超えるような山頂付近で水晶玉が出土した経緯を教えて下さい。

*五丈岩など金峰山山頂周辺から出土した釘、馬具、古銭、銅盤、水晶の数珠玉などが山梨県立博物館に展示されている。

総代 : 社歴によると約2,000前に金峰山に御祭神が祀られて、それからおよそ500年経って神勅により御岳山に社殿を建立し本宮三柱神を勧請したのがここ里宮、当社の成り立ちです。このときに、大和国(奈良県)の金峯山(きんぷせん)から蔵王大権現、金精大明神を勅令により合祀*し(前者を本宮へ、後者を中宮へ)、やがて修験者が盛んに金峰山に集うようになります。おそらく、その頃に水晶が産出するこの地域で玉に磨かれるようになったのだと思います。つまり、金峰山山頂付近で水晶玉が出たというのは、ここで加工したものを身につけて上に持っていったということだと思います。

*合祀:ある神社の祭神を他の神社に合わせ祀ること。または二柱以上の神や霊を一神社に合わせて祀ること

昔に描かれた御岳古道
昔に描かれた御岳古道の絵巻

 

御岳古道(山梨)の道すがら、いくつもの社があることが分かる
御岳古道の道沿いに120近くの社(やしろ)があるという

 

境内で使われる大きな水晶製の御朱印

—御岳古道は歴史遺産としての価値が高いと思いますが、現在、登山者や観光客が利用できる状態ですか?

総代 : いえ、利用できない状態です。この古道をまた人が歩けるようにと、私たちも整備や行政への働きかけなどを行っています。なかなか難しいところもありますが、ぜひここは甲府市にも関わっていただきたいところで、ぜひ廣瀬先生にもお力添えいただきたいです。

—そのとおりですね。大事なことですので、私(廣瀬議員)としてもできることを取り組んでいきます。

総代 : 御岳古道はものすごく険しいです。歩いて行けば片道7時間くらいかかります。現在は一部通行が禁止されている箇所もあるため、そこの整備をして通行できるようにすれば、昔のとおり修験道の御岳古道が復活します。

—たしかにそうですね。アプローチも大事です。現在、路線バスは通ってはいますが、観光客の利便性という意味では十分ではないでしょうね(廣瀬議員)。

 

—金櫻神社は昭和30年に12棟の社殿が火災で消失しましたが、当時の建物の様子が分かる写真や資料などはありますか?

宮司 : はい、こちらになります。

金櫻神社『思いで』には焼失前の金櫻神社の様子が残されている

 

焼失前の拝殿(左)と本殿(中央から右にかけて)

 

焼失前の神楽殿(手前)と本殿(奥)

 

—本殿の屋根は檜皮葺き(ひわだぶき)ですか?

宮司 : はい、檜皮葺です。檜皮葺きをやるには職人と檜皮をとるヒノキが必要になります。昔は檜皮葺きをできる職人さんがいました。

 

—金櫻神社は金運の神社として全国的に有名になり、経営者の方など県内外から祈願に訪れます。また、選挙のときは、金櫻神社で戦勝祈願をしてここを起点に選挙カーを走らせる候補者が多いと聞きます。

宮司 : とくにこちらから金運などを謳ってるわけではありませんが、次第にそのような評判が立ったということですね。はるばる関西から来られる方もいらっしゃいますね。ありがたいことです。当社としては、これまでの歴史の中で行われてきた行事、祭祀、御縁年祭もそうですが、長い間受け継がれてきたことをこれからも執り行うということです。

総代 : もとは疫病や病気を鎮めるために祀られた神社ですが、時代とともに変わり、現在は情報誌などにも取り上げられて若い人の中にはパワースポットとして、また金運として有名です。企業の方には商売繁盛、業務安泰の祈願で訪れていただいています。

 

 

—明治時代の廃仏毀釈*など、歴史の時勢に金櫻神社も直面してきましたか?

*明治3年に出された詔書(天皇の命、公文書)「大教宣布」などの拡大解釈と暴走で起こったとされる仏教施設、仏像などの破壊。

宮司 : この金櫻神社も神仏分離、廃仏毀釈のときに神道系となり、お寺関係はぜんぶ排斥されました。それまでは、これは当時一般的に見られたことですが、神道系、お寺、あるいは仏教徒をはっきり区別されていませんでした。江戸期中期にお寺さんが弱ってきていて、明治のそのときもすでにお寺さんが元気でなかった。金櫻神社では、その当時、神主さんとお寺さんと年番(ねんばん)神主が何人かいて、山を持っていた村長(むらおさ)とで話し合って神社を管理していました。 

 

金櫻神社の神楽殿
焼失前の金櫻神社の神楽殿(左)と随神門(右)

 

金櫻神社の拝殿(左)と本殿
拝殿(左)と本殿 (焼失前) 

 

荘厳な神楽殿(左) (焼失前)

—この『神楽殿』は、、、畏れというか、なにか心に迫ってくるものを感じます。木鼻が何重にもなっていて、日光東照宮の建築物を想起します。

宮司 : この神楽殿は、相原総代は実際に子供の時に見ているからね(笑)

総代 : この縁の下が遊び場でしたね、小さい頃は。このお祭りが昔は4月の21日か22日ころだったのですが、その頃もう桜が満開で、いろいろ旅芝居が来てくれて近くの公会堂でやってくれましたね。

—旅芝居とは紙芝居をする人ですか?(小田和)

総代 : いえいえ。お芝居。剣劇をする一座です。お祭りの2日間くらいかけていろんなお芝居をしてくれます。旅役者というですかね。それがみんな楽しみでね。一年にいっぺん、春の祭りを『御会式(おえしき)』と呼んで、この地域の各地から春のお会式を楽しみに大勢の人が歩いて来ていました。この広場を埋め尽くすくらいの人でしたよ。それは、みんなほんとに楽しみにしてました。

勝頼・盛信奉納の鼓胴
頼・盛信奉納の能面
勝頼・盛信奉納の能面

 

—三内丸山遺跡や真脇遺跡など縄文時代の遺跡には、大きな木を建ててそれ自体を崇めた遺構が出ています。今の神社にもご神木や鳥居など木を建てて崇める信仰形態があり、諏訪大社には巨木を社殿の四隅に建てる信仰もあります。神社のルーツが日本で文字が生まれる前だとすると、そのような土着の信仰を総体として引き継いできたのが神社だと感じます。縄文時代の信仰形態と現在の神社とのつながりをどうお感じですか?

宮司 : 日本人のものの考え方に巨木信仰があります。それに神様が宿っているという考えです。それは縄文時代からあったと思います。日本人の神霊感がその頃から続いているんでしょう。諏訪大社が来年、御柱祭をやりますが、あのような神事を見てると日本の昔からの信仰の形が見えてくると思います。ですから、その着眼は神社の本質に迫ってます。

—金櫻神社にも杉の巨木がいくつもありますね。

総代 : それこそ千何百年という樹齢の杉の木が境内の太鼓堂のそばにありました(*現在は焼失)。また、拝殿へと上がる階段の両脇に生える杉の群落は、7本杉という名前で甲府市の天然記念物になっています。それぞれ高さが50メートルくらいで、樹齢は800年くらい。そのうちの一本が倒れそうだったため、去年切りました。中に大きな洞ができていました。天然記念物ですが、周囲に危険が及べば切るしかありませんね。残念ですが。

相原総代は、ここ御岳町で生まれ育ち、金櫻神社が鎮座するこの地域の時代の変遷を見てきた方です

金櫻神社の相原総代

 

—相原総代が総代になられた経緯や金櫻神社への想いなどを教えて下さい。

総代 : 私の実家はこのすぐ近くですが、明治39年まで旅館をしていました。当時、講(こう)の人たちが金櫻神社にお参りに来ていて、その方たちが旅館にも泊まりました。

子供の頃は、祭りが来ればうれしい、芝居が来ればうれしい、という感じで、そこまで神社の意義を意識していたわけではないですが、成長するにつれ、金櫻神社はとても偉い神様だと周りの大人から言われて自然に、何事にしてもまず神様にというような気持ちになっていきましたね。一時山梨を離れたこともありましたが、戻ってきて、それから神社のことに関わるようになりました。

年数も経って、昔から神社のことにいろいろと関わってきたということもあって、みんなから選ばれて総代になりました。

われわれが小さいときのように賑やかな神社であってほしいです。この神社にお願いに来る、あるいは心の中にこの神社がある、なにかあったらまずはこの神社に来たい、そう思ってもらえるといいですね。そういう気持ちでこの神社に関わっています。

 

—子どものときのあの旅芝居の記憶、広場を埋め尽くす人の記憶がその想いの根底にあるということですか?

総代 : そうですね。お祭りは楽しいってのがうんとあったからね。次の人たちにもそういう気持ちになってほしいです。

 

—金櫻神社のこれから、未来像をどのようにお考えですか?

総代 : 未来というと大げさかもしれませんが、この度、宝くじの桜寄贈事業に申請しまして、それが通りました。苗木が200本届くので、それを来年3月20日に植樹します。まだ構想の話ですが、これを5年続けて計千本の桜を神社周辺に植えて、吉野の桜の名所(奈良県)のようにできればと思っています。蔵王大権現の大和の国、金峯山のすぐわきにあるのが吉野山ですから。

 

—未来のお話は大和国金峯山から蔵王大権現を合祀したという金桜神社のルーツにつながっていくわけですね。

今回は、いろいろとお話をお聞かせいただき、ありがとうございました。

 

執筆:小田和賢一(ヒノキブンコ

 

 

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